土曜日は、全学共通教育の授業「SDGs学入門」を受講する6名の学生たちとともに水車遺構探索に行ってきました。
高原水車を訪問したあと引き続いて木太町の石丸水車とよばれる水車の痕値を見学しました。
石丸水車の水車の建屋はすでに立て替えられていましたが、大きな用水路の堰に取り付けられた取水口から道路の反対側に小さい水路が作られており、その水路の風情に当時の水車の面影を少し残しているように思いました。とはいえ、用水路もこの道路も昭和40年代に大きく整備されたもので、水車の当時のものとはかなり異なるそうです。
旧取水口の近くに水車の跡地を示す碑(木太地区文化協会によるものとあります)が建てれらています。
当時は多くの住民の方々が脱穀等のためにこの水車を利用しに来ていたとのこと。志度から来られていた人もいた、とご主人は記憶されていました。
「讃岐の水車」(峠の会編、香川文庫、1988)によると、周囲にはほかにも水車の遺構が存在します。
これらの遺構が現在どのような痕跡をとどめているか、引き続き調査をしてみたいと思います。

取水口と道路をはさんだ水路
用水路に堰が見える
石丸水車跡の石碑

日曜日は、中世稲作再現実験に参加してきました。
教育学部社会科領域の守田逸人先生とそのゼミ生たちとともに、香川大学農学部附属農場を訪れました。
中世当時の稲作を再現するために農場内に水田・陸稲の田んぼを設け、適宜手入れをしながら秋に収穫されました。今回はその稲の調査を行うため、重量の計測や脱穀等を行い、収量を調査するなどの作業を行いました。
稲は2種類あり、アゼコシ・シライネと言います。いずれも中世当時に実際に栽培されていた稲です。現代の稲に比べてかなり丈が高いです。茎もかなりしっかりしています。
守田先生によると、収量はもちろん多くないが、肥料などそれほど与える必要なくじゅうぶんに収穫できるとのこと。土壌中の栄養分の使い方や、窒素固定の在り方等はどうなっているのか。また、人口密度のことを考えた時に収量はどの程度の量だと考えたらよいのだろうか、といった問いが浮かびます。
ひきつづき実験に参加して学びを深めてまいりたいと思います。

イネの調査
授業パンフレット(水車)
授業パンフレット(中世稲作)